浅田進史研究室/歴史学

研究・教育・学会活動ノート

1919年にベルリンに設立された性科学研究所について――Der Tagesspiegel紙の記事より

 ここのところ、卒論テーマに同性愛を選ぶ学生を指導する機会が続いています。

 2019年7月5日付のデア・ターゲスシュピーゲル紙に、100年前にベルリンにマグヌス・ヒルシュフェルトが設立した性科学研究所(Instituts für Sexualwissenschaft)についての論説が掲載されました。以下に、リンクを貼っておきます。

 

 

 同性愛者をその性だけではなく、「その個人全体のなかで理解し、研究されなければならない」というマグヌス・ヒルシュフェルトの1899年の文章を引用することで、この記事は始まります。その研究所は、現在のドイツの国会の議場近くにある「世界文化の家」にあり、1919年7月6日に開設されたと説明されています。

 この研究所は性にかかわるあらゆる問題についての研究・教育施設として構想されていたそうです。したがって、たんに同性愛問題研究にその意義を限定することは誤りであり、性全体の理解のなかに同性愛とトランスジェンダーの視点を組み入れることを目指していた、といいます。

 ここでは、まず1868年にコルベルク(Kolberg)でユダヤ系医師の家に生まれたヒルシュフェルトの経歴が紹介されています。そのうえで、男女の違いが精神的にも身体的にも質的なものではなく、程度の問題にすぎないという認識に達したヒルシュフェルトの理論が高く評価され、クィア理論の先駆者として位置づけられると述べられています。さらに、彼の活動家としての側面が紹介されており、1897年にヒルシュフェルトが同性愛を犯罪と規定した当時の刑法第175条を廃止するための委員会、Wissenschaftlich-humanitäres Komitee を立ち上げたとのことです。

 この研究所の活動は、ヴァイマル期の間は広く受け入れられていましたが、ナチ体制のもとで弾圧されました。1933年5月6日、研究所施設は押収され、図書館の蔵書の大部分はベルリンのオペラ広場で燃やされました。ユダヤ系・同性愛者・社会民主党員である彼は迫害を逃れ、パリで研究所を再建しようとするも成功しなかったそうです。1935年にヒルシュフェルトはニースで亡くなりました。

 1982年にマグヌス・ヒルシュフェルト協会(Magnus-Hirschfeld-Gesellschaft)が、続いて2011年にヒルシュフェルト財団(Hirschfeld-Stiftung)が設立され、さらに性科学研究所の文化的遺産を引き継ぐために、「クィア文化の家 E2H(das queere Kulturhaus E2H)」が活動する予定で、2022年にチェックポイント・チャーリーに面した旧Taz紙の建物にマグヌス・ヒルシュフェルト協会の文書館が移転するとのことです。

 すでにE2Hの活動は開始しています。同ホームページと関連記事へのリンクを貼っておきます。

 

 

 ちなみに、性科学研究所についてはドイツ連邦文書館の説明によると、R 8069 の所蔵番号で、"Institut für Sexualwissenschaft" というファイルで史料が残っています。残念ながら、ナチによる破壊のせいで、わずか7点の史料のみとのことです。

 

 ベルリンの性科学研究所とマグヌス・ヒルシュフェルトについては、以下のブログでも説明がありました。

 

 

 日本語で読める論文としては、谷口栄一氏の諸論考があります。

 

  • 谷口栄一「ヒルシュフェルトの『ベルリーンの第3の性』を読む――近代都市の同性愛者群像」『言語と文化』第9号、2010年、89ー102頁
  •  同  「ドイツにおける同性愛解放運動とその課題――ヒルシュフェルトから同性婚法まで」『大阪府立大学言語文化研究』第1号、2002年、13ー21頁