浅田進史研究室/歴史学

研究・教育・学会活動ノート

カップ=リュトヴィッツ一揆、1920年――ドイツ連邦文書館ヴァーチャル展示より

 ドイツ連邦文書館のヴァーチャル展示「カップ=リュトヴィッツ一揆1920年」のリンクを貼っておきます。

 

 

 当時の写真、関連文書だけではなく、以下の無声映像史料も掲載されています。

 

  • Filmstill "Kapp-Putsch in Berlin", Korvettenkapiän Hermann Ehrhardt im offenen PKW.
  • Filmstill "Kapp-Putsch in Berlin"
  • Filmstill "Kapp-Putsch in Berlin", Mitglieder der Kapp-"Regierung" General Lüttwitz, Traugott von Jagow und Gottfried Traub

 

 展示の解説文を紹介します。

 1919年夏以降、右翼の反共和国的勢力による政府転覆計画が存在しました。その中心には、ルーデンドルフ将軍と東プロイセン地域長官(Generallandschaftsdirektor)でドイツ祖国党(Deutsche Vaterlandspartei)の共同設立者ヴォルフガング・カップいわゆる「国民連合(Nationale Vereinigung)」がいました。彼はベルリン第1国家防衛隊司令部長官(Chef des Reichswehrgruppenkommandos I in Berlin)ヴァルター・フォン・リュトヴィッツ(Walther von Lüttwitz)将軍と接触しました。リュトヴィッツのもとには多数の義勇軍が集まっており、そのなかにはエアハルト海兵旅団も参加していました。

 ヴェルサイユ条約で規定された動員解除のため、義勇軍と民間防衛軍(Einwohnerwehr)は解体されなければならず、政府は3月初めにエアハルト海兵旅団などの解散を命じました。それに対して、1920年3月13日の朝、リュトヴィッツに命じられたエアハルト海兵旅団がベルリン政府区域を占領しました。エーベルト大統領と政府はドレスデン、さらにシュトゥットガルトへ逃れることになりました。

 カップは自ら新大統領を名乗り、リュトヴィッツは国防大臣と国防軍最高司令官に任命されました。しかし、ベルリンの諸省庁の官僚たちはこのクーデタに距離をとり、労働組合は抗議のゼネストを興しました。1920年3月17日にカップ、リュトヴィッツ、そしてエアハルトは外国に逃亡しました。

 

 この展示ページの下部には、ドイツ連邦文書館所蔵の関連史料へのリンクが貼られています。

 

【2022年9月29日追記】

 2022年7月、ローザ・ルクセンブルク財団のウェブサイトより、1920年3月13日から23日にかけて、テューリンゲンで起きたカップ一揆に反対するゼネストについての冊子がアップされました。