2017年10月19日付のベルリンの日刊紙ターゲスシュピーゲル紙のウェブサイトに、「あるユダヤ系女性を救ったムスリム」というインタビュー記事が掲載されました。
このインタビューを受けた人は、ローネン・シュタインケさんで、『南ドイツ新聞』の編集者・ジャーナリストです。彼が2017年8月に発表した本についてのインタビュー記事です。
この記事では、モハメド・ヘルミー(Mohammed Helmy)というエジプト人医師がナチ期ドイツで一人のユダヤ系女性を匿い、救ったというエピソードが紹介されています。
それと同時に、そのエピソードの背景に、1920年代・30年代のベルリンでは多くのアラブ人が生き生きとした都市生活を送り、そのあり様は教養をもち、進歩的で、反ユダヤ主義的なものとはまったく違っていたと指摘されています。そのうえで、こうした歴史が今日、ほとんど知られていないといいます。
ヨーロッパに留学しようとしたアラブ人がベルリンにやってきた理由として、パリやロンドンのような植民地支配国の首都を避けたことが挙げられています。ベルリンは文化と学術の場所として映っており、カイロ、ダマスクス、マラケシュなどの富裕層の子弟、つまり将来の自国のエリート層が数年の間、ドイツに滞在していました。
当時のアラブ人は、映画館やクーダム周辺に多くのジャズ・クラブを設立してきたといいます。そして、ナチ期においても、これらの施設は閉鎖されなかったそうです。ナチはアラブ人に対して人種主義的なまなざしをもっていたけれども、イギリス、フランス、ユダヤ教徒という共通の敵に対する同盟相手と見ていたことが理由として指摘されています。
また、多くのドイツ系ユダヤ教徒にとって、オリエントへの憧憬があり、イスラーム教徒もたがいにベルリンに住む宗教的少数者として受け入れていたといいます。
こうした背景から、エジプト人医師モハメド・ヘルミーのような事例が見られ、彼がもっていたアラブ人のネットワークはパスポートの偽造など、類似の救出例があったといいます。
しかし、最後に、現在のパレスティナ/イスラエル問題は、このような人道的な歴史的事例を称えることを困難にしている状況も述べられています。もつれ合った現在の歴史を考えさせられます。