浅田進史研究室/歴史学

研究・教育・学会活動ノート

「ケーペニックの血の週間」について――ナチの権力掌握と物理的暴力

 少し前の記事になりますが、2018年6月21日付のデア・ターゲスシュピーゲル(Der Tagesspiegel)紙オンライン版に、ベルリンのケーペニック地区で起きたナチ暴力の実例を取り上げた記事が掲載されました。

 

 

 この記事の内容を紹介します。

 1933年にナチ党の権力掌握後、ケーペニックに住むキーリアーン一家は10回も家宅捜索に遭っていました。同年6月21日に11回目の家宅捜索がありましたが、それは「ケーペニックの血の週間」が始まった日でもありました。ケーペニックのナチ突撃隊は大規模な逮捕活動を開始し、エルゼングルント居住区を包囲しました。そこには主に社会民主党員、共産党員、労働組合員が住んでおり、ナチの嫌悪の対象でした。キーリアーン一家も1923年からここに移り住んでいました。

 リディ・キーリアーンは1919年以降、ドイツ共産党員で、党本部で働いた経験をもち、ケーペニック地区の議員として失業者対策と女性権利向上に尽力していました。一方、夫のゲッツ・キーリアーンは市議会議員で芸術・文化を担当していました。出版事業に精通した彼は、ノイエス・ドルフ(新しい村)出版社を設立し、農業問題についての共産主義文献の普及活動を行っていました。

 しかし、ナチ党の政権掌握後、子どもたちにも感じられるほどに状況が変化しました。つねに監視され、ナチ突撃隊に包囲されることで両親が帰宅することも困難になり、家がもはや安全ではなくなりました。娘のイゾートは学校から帰る途中で、父親がナチ突撃隊のトラックで連れ去れるところを目撃したそうです。

 著者は、突撃隊と親衛隊の暴力が決して隠されたものではなかったといいます。ケーペニックの中心にある監獄では、虐待による犠牲者の叫び声が周囲に聞こえていました。歴史家シュテファン・ヘルドラーによれば、初期の強制収容所と拷問行為は実際に「暴力のラボ」であって、その後に展開する強制収容所システムとナチ支配の常態化をみることができるとのことです。

 1933年6月26日、ケーペニックのテロ行為は終了したと宣言されました。死者は数人にとどまらず、ダーメ川に投げ込まれた遺体が次々と発見されました。ゲッツ・キーリアーンは生き延びましたが、虐待の痛みを苦しむことになります。娘のイゾートは学校でいじめに遭いました。一家はベルリンを離れ、ハンブルクに逃げましたが、1938年にゲッツはゲスターポに逮捕されます。彼は1933年の「ケーペニックの血の週間」に受けた傷によって2年後の1940年に亡くなります。

 戦後、リディ・キーリアーンと娘イゾートはケーペニックに戻り、イゾートは舞台俳優となり、ベルトルト・ブレヒトとヘレーネ・ヴァイゲルとともに新しく設立されたベルリナー・アンサンブルで活動しました。

 この記事では、虐待した側のナチ党員クルト・フェヒナーについても焦点が当てられています。関心のある方は本文をお読みください。

 

【2023年5月24日追記】

 2023年3月28日、Gegen Blende (隠蔽に抗して)という評論ウェブサイトで、「『ケーペニックの血の週間』90年――ベルリンにおける突撃隊のテロ行為」という記事が掲載されました。