浅田進史研究室/歴史学

研究・教育・学会活動ノート

Wien Geschichte Wiki とケーテ・ライヒター

 1991年以降、オーストリアでは、毎年、労働者女性の歴史・労働者運動の女性史にケーテ・ライヒター賞が贈られていました。一時中断後、2005年以降、女性・ジェンダー研究にケーテ・ライヒター国家賞が授与されています。

 このケーテ・ライヒター(Käthe Leichter)氏について、Wien Geschichte Wiki というサイトで、その生涯を知ることができます。

 

 

 ここでは、オーストリア女性でおそらく初めて国家学で博士号を取得したと指摘されています。1914年にウィーン大学に入学し、国家学を学びましたが、当時、女性に博士号授与を認めておらず(そもそも入学も司法で訴えて許可を得ました)、ハイデルベルク大学で博士号を取得しました(博士論文「オーストリアハンガリーとイタリアの通商関係」1918年)。ウィーンでは社会問題に、そしてハイデルベルクでは反戦運動に刺激を受けたとのことです。

 帰国後は、オーストリア社会民主主義労働者党に加入し、社会民主主義系の学生・学者団体を設立しました。1919年から1934年までウィーンで党の教育・女性事業を担い、同党の大会・女性会議のほぼすべてに代表として参加したと説明されています。また同党の月刊誌『闘争(Der Kampf)』と『労働者新聞(Arbeiterzeitung)』の編集者も務めました。

 ナチ支配がオーストリアに及ぶと、夫オットーとともに党の地下活動に加わります。夫と息子は亡命できましたが、ケーテ・ライヒターは1938年5月30日にゲスターポに逮捕されます。留置所で回顧録を残しました。ゲスターポによって拘留された間、1939年、ハイデルベルク大学は彼女の博士号の認可を取り消したとのことです。2013年になって、ようやくハイデルベルク大学はこの認可取り消しの無効化と家族に謝罪しました。

 ケーテ・ライヒターは、1940年に女性用強制収容所ラーフェンスブリュックに送られ、1942年3月、ナチの安楽死計画によって、ベルンブルク(ザーレ)の精神病院で殺害されました。

 

 Wien Geschichte Wiki を紹介するつもりで、ケーテ・ライヒターの記事を要約してみましたが、歴史の重みがありました。Wien Geschichte Wiki のトップページのリンクも貼っておきます。