今さらですが、「民度」は差別表現です。*1
近年、揶揄するような文脈でメディアや日常会話のなかで、この表現が許容されるようになっている気がします。歴史的に帝国主義者・植民地主義者が好んで使ってきた表現で、安易に使われる風潮を懸念しています。確信犯的な人もいると思いますが。
帝国主義の時代には、英語では"standard of civilization"、ドイツ語では"Kulturstufe"という表現が使われてきました。
それは異なる文化を尊重し、認め合うものではなく、さまざまな文化を序列化する差別意識の発露です。西洋中心主義的な思考、いわゆるオリエンタリズムの典型です。
日本でこの言葉が使われるとき、内面化した西洋中心主義的な思考、つまりオクシデンタリズム(逆オリエンタリズム)とアジア蔑視が表面化するように思います。
近年、だんだんとこの言葉を見聞きすることが増えてきました。メディアはこの言葉が使われることに警句を発するべきです。
この言葉が日本で歴史的にどのように使われてきたかについては、以下の論文をどうぞ。
この「民度」については、さらに歴史学の手法で分析する意義があると思っています。
ドイツ植民地主義に関わる文献のなかでは、"Kulturstufe"(文化段階)という言葉が使われました。ベルリンに留学していたとき、この言葉が気になり、ベルリン=リヒターフェルデのドイツ連邦文書館で知り合った英語圏から来た研究者にたずねたところ、英語圏にあたる言葉として、”standard of civilization”を教えてもらいました。
日本では「民度」、フランス語圏、スペイン語圏ではどうでしょうか。かなり重要な共同研究になりそうです。
10年ほど前、中国に旅行したとき、公道で「文明市民」という言葉をみました。自国民の教化の側面もありますね。
イギリス学校教育での"standard of civilization"についての事例研究(2014年)も見つけました。
- Barry Buzan, "The 'Standard of Civilisation' as an English School Concept," Millennium: Journal of International Studies 42: 3 (2014), 576-594.
この"standard of civilization"については、ほかにも国際法の分野でいくつか先行研究があるようです。
ちなみに、ドイツ語圏で「文化」、英語圏で「文明」という言葉の対置は、ドイツの第一次大戦研究で指摘されてきたことです。
この論文はすでにオープンアクセスになっていました。ありがたいことです。
どの地域でどういった言葉が選択されるのか。時代も地域も研究領域を横断する相当な学際的研究になりそうです。
植民地主義研究でいえば、内国植民地化と植民地化の同時並行・関連性という問題でしょう。
基本的にはイギリス・フランスでの「文明化の使命」論やドイツの「文化伝道」論、イギリス帝国主義・帝国史研究を中心に取り上げられた「帝国意識」論の延長だと思います。それ以上の論点を提示できるかが重要ですね。
これは完全に、
- ゼバスティアン・コンラート(浅田進史訳)「グローバル・ヒストリーのなかの啓蒙(上)・(下)」『思想』第1132号、2018年8月、93-115頁
- 同「グローバル・ヒストリーのなかの啓蒙(下)」『思想』第1134号、2018年10月、106-125頁
の議論の延長線ですね。「啓蒙」概念を長期スパンでとらえ、その暴力性を論じた論説です。この議論が共同研究になりそうと思ったところで、気づきました。