浅田進史研究室/歴史学

研究・教育・学会活動ノート

植民地のための権利請願――ブログ・民主主義の歴史(Blog Demokratiegeschichten)より

 日常の小さな歴史から民主主義の歴史を確立させることを目的に掲げた、「ブログ・民主主義の歴史(Blog Demokratiegeschichten)」を知りました。リンク先はこちらです。

 

 

 歴史(Geschichte)を複数形にすることで、民主主義が、議会の成立のような大きな歴史だけではなく、日常の多種多様な歴史から民主主義がいかに築き上げられてきたかと目に見えるようにしようというものです。その趣旨に共感します。

 

 このブログは、「忘却に反対し、民主主義に賛成する(Gegen Vergessen Für Demokratie e.V.)」という協会と連邦政府文化・メディア担当が取り組むプロジェクトであり、連邦プログラム「民主主義を生きる(Demokratie leben!)」の枠組みで家族・高齢者・女性青少年省によって助成されています。

 

 2021年7月3日、そのブログに「植民地のためにより多くの権利を――ディボベ請願」が投稿されました。

 

 

 これは1919年6月にヴァイマル国民議会に向けて作成された請願であり、ドイツ植民地出身者が第一次世界大戦後に成立するはずの「新しい社会的な共和国」に向けて「自立性と平等」を要求したものです。

 

 この請願と関連する史料については、Black Central Europe というサイトに掲載されています(一部省略あり)。

 

 

 上記のブログの記事を要約します。

 

 この請願を主導したマルティン・ディボベは、1876年にカメルーンのドゥアラにおける政治指導者の息子として生まれました。1884年カメルーンはドイツによって植民地化されましたが、ディボベは1896年に開催されたトレープトアー・パーク工業展覧会内のドイツ植民地展示で「アフリカの生活」を実演するための「契約労働者」としてドイツに渡ることになります。展覧会終了後、鉄道に感激した彼は、機械工の専門教育を受け、1902年にベルリン高架・地下鉄道会社で鉄道職員として働くようになりました。また、政治的にも積極的に活動し、社会民主党に共鳴していました。

 1906-1907年に、ディボベは帝国政府の委託によりカメルーンに旅行しました。それは、同地での鉄道建設事業の顧問として助言し、また現地での仲裁役となることが期待されたものです。しかし、この滞在によって、彼は植民地体制の不平等を再度、強く意識するようになりました。

 ドイツに帰国し、1914年には、人権同盟(Liga für Menschenrechte)に加入し、さらに社会民主党に参加し、植民地状況の改善を期待しました。そして、1919年に18人の署名とともに、32ヵ条の請願をヴァイマル国民議会に提出しました。

 1919年に彼は鉄道会社の職を失いました。そして、家族とともに、1922年にカメルーンに帰国しようと試みます。ところが、委任統治国であるフランスは彼とその家族の入国を拒否しました。リベリアに留まらざるをえませんでした。それ以降、彼の足取りはつかめず、行方不明となりました。

 およそ100年後、彼の功績を顕彰するために、ベルリン市によって記念板が掲げられました。場所は1918年時点で彼が住んでいたクーゲラー通り44番(Kugeler Straße 44)です。

 

 記念板についてのベルリン市の紹介は以下をどうぞ。

 

 この請願については、ドイチェ・ヴェレでも紹介記事があります。英文記事のリンクを貼っておきます。

 

 

【2023年1月19日、Gegen Vergessen - Für Demokratieの訳を一部修正】