浅田進史研究室/歴史学

研究・教育・学会活動ノート

ルードルフ・ドゥアラ・マンガ・ベルとその名誉回復をめぐって

 2022年8月15日、ドイツの左派系の新聞、taz 紙のオンライン版に、ドイツの都市アーレンとウルムが、1914年にドイツ植民地統治下のカメルーンで処刑されたドゥアラ王ルードルフ・ドゥアラ・マンガ・ベルの名をある広場につけることで、彼を顕彰することになった、という記事が掲載されました。

 

 

 記事の冒頭部分を要約します。

 ルードルフ・ドゥアラ・マンガ・ベルは、1914年8月8日にドイツ植民地行政によって「反逆罪」を理由に、州都ドゥアラで、彼の秘書アードルフ・ンゴソとともに処刑されました。この処刑には、ドイツの人種差別的植民地統治へのカメルーン民衆の不満を押さえつける意図があり、当時からドイツ国内でも問題視されていました。例として、ドイツ社会民主党のアウグスト・ベーベルが帝国議会でスキャンダルとして論じたことが挙げられています。

 ルードルフ・ドゥアラ・マンガ・ベルは、1891年からアーレンで学校に通い、1896年からウルムで一年間ギムナジウムに通っていたとのことです。父親からは法学を修めるように望まれていたそうですが、カメルーンに戻り、ドゥアラで植民地行政のもとで専門教育を受けました。そして、1908年に王となりました。

 1884年にドイツはドゥアラ人の指導者たちと「保護条約」を結びますが、そのなかにルードルフの祖父もいました。この記事では、1910年から、象牙、パーム油、ゴムなどに関心をもつドイツ・ハンブルクの貿易商社の利益を優先させた植民地政策が本格化し、ドゥアラ人が追いやられていく過程が指摘されています。

 そうしたなか、ルードルフは、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世や帝国議会に請願を送り、保護条約の文言の維持を訴えたとのことです。また、秘書のンゴソをベルリンに派遣しました。この行動は、新聞やドイツ社会民主党の政治家に取り上げられ、帝国議会での議論にまで発展します。しかし、彼とンゴソは死刑判決を受け、さらに数百人のアフリカ人が虐殺されたと説明されています。

 

 カメルーンではベルは英雄であり、多くの人びとが彼の名誉回復をドイツ連邦政府に要求しているとのことです。その一例として、彼のひ孫にあたるマリリン・ドゥアラ・マンガ・ベルが、5月に名誉回復の請願をドイツ連邦政府に提出したものの、まだ回答を得ていないそうです。

 

 ルードルフ・ドゥアラ・マンガ・ベルについては、Black Central Europeというウェブサイトで簡潔に紹介されています。

 

 そのひ孫、マリリン・ドゥアラ・マンガ・ベルについては、ゲーテ・インスティテュートのウェブサイトによる紹介をどうぞ。