浅田進史研究室/歴史学

研究・教育・学会活動ノート

ネオナチにとっての「ベルリンの壁の崩壊」――北ドイツ放送ウェブサイト記事について

 ドイツ民主共和国の消失は、ドイツ連邦共和国のネオナチにとってどのような意味を持ったのでしょうか。また、ドイツ民主共和国時代に「ネオナチ」はそもそも存在していたのでしょうか。

 この問いについて、当事者のインタビューを中心に構成された番組(30分)と記事が「北ドイツ放送(Norddeutscher Rundfunk)」のウェブサイトに掲載されました。番組放送日は2020年9月1日および3日で録画も閲覧できます。

 

 

 タイトルは「転覆の夢――ネオナチたちと体制転換」です。

 

 この記事では、西ドイツのネオナチにとって、「ベルリンの壁の崩壊」が東ドイツでの人的資源の獲得にとっての大きなチャンスとなり、東ドイツでネオナチ思想を鼓舞したことが指摘されています。東西ドイツ統一以前、西ドイツではネオナチ幹部が動員しても、1000人未満にすぎなかったとのことです。

 

 他方で、ドイツ民主共和国時代にもネオナチの運動は存在していました。国家保安省史料には、ネオナチ・人種主義・反セム主義についての直接の言及がなくても、無数の右翼の暴力・犯罪行為が記録されていると、歴史家ハリー・ヴァイベル(Harry Waibel)氏が解説しています。それらの史料に記載された集団の名称――たとえば "SS-Division Walter Krüger Wolgast" ――にそれらのネオナチ的・人種主義的性格が明らかでした。1980年代末には、ドイツ民主共和国内務省にその動向を研究プロジェクト "AG Skinhead" が進められていたとのことです。

 

 東ドイツのネオナチだったインゴ・ハッセルバッハ(Ingo Hasselbach)氏へのインタビューもあり、ネオナチとなっていく過程が興味深いです。

 1980年代に彼は亡命を図って失敗し収監されましたが、そこで古参ナチと知り合い、その教義を植え付けられたと語っています。釈放後にすぐに「ベルリンの壁の崩壊」があり、西ドイツのネオナチと知り合ったそうです。彼はすぐにもっとも有名な東ドイツのネオナチとなり、「ベルリンの総統」と呼ばれ、東ドイツの右翼勢力の束ねる存在になったとのことです。

 ハッセルバッハ氏は、1992年11月にシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州で起きたネオナチによるトルコ系家族放火殺害事件によって、ネオナチの活動を離れました。「外国人排斥」を呼びかけることはできないし、いまでもその共同責任を感じていると語っています。

 

 そのほかこの記事では、東ドイツ地域で「ドイツのための選択肢(AfD)」がより強く、より急進的になっていること、1990年代初頭では決してそうした状況ではなかったことを指摘し、ハッセルバッハ氏は右翼の運動からの離脱を進める組織 "Exit" を設立したことなどが紹介されています。